本
文
摘
要
日本は、発音は「にほん」でも「にっぽん」でも良いそうですが、漢字では「日本」と書きます。
日本,在日语中读作“にほん”或者是“にっぽん”,汉字写作“日本”。
では、どうして「日本」という国名になったのか考えたことはありますか?
那么,你知道为什么日本叫做“日本”吗?
また、英語で「Japan」というのもなぜそうなったのか不思議ではありませんか?
而且,在英文中“日本”竟然读作“Japan”?
今回は、私たちが日本の国名の由来について調べてみました。
今天,互强日语教育的老师们给大家分享日本国名的由来。
“日本”什么时候被确定为国家名字的?
「日本」という国名は、7世紀から8世紀初頭ごろに使われるようになったと考えられています。
“日本”这个名字,大约是在7世纪到8世纪初被使用。
しかし、「この年の、この日から『日本』という国名にする」といった具体的な史料は残されていないため諸説あります。
因为没有留下确定“日本”为国名的具体的史料,所以众说纷纭。
646年の大化の改新のころから使われるようになったという説
有说法是在646年的大化改新中开始使用“日本”
江戸時代(1603年~1868年)の国学者である本居宣長(もとおりのりなが・1730年~1801年)が、「大化の改新の頃には、『日本』と書いて『ひのもと』と読んでいたのではないか」という推測をしています。
但江户时代的日本国学家本居宣长推测,在大化改新时期,“日本”读作“ひのもと”。
689年の飛鳥浄御原令が施行されてから使われるようになったという説
有说法是689年飞鸟净御原令施行后使用“日本”
天武天皇の治世(672年~686年)に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の中で「日本」という国名が表記されていたといわれていますが、現存していないため定かではありません。
据说天武天皇统治时期,飞鸟净御原令中将“日本”作为国名记载,但飞鸟净御原令并没有保存下来,所以无法确定真假。
701年の大宝律令が制定されてから使われるようになったという説
有说法是701年大宝律令制定后使用“日本”
「令義解(りょうのぎげ・833年)」という書物の中に、701年に制定された「大宝律令(たいほうりつりょう・律は刑罰に関する規定、令は政治・経済などの行政に関する規定のこと)」の解説があります。
在《令义解》一书中,有关于701年制定的《大宝律令》关于刑法规定、政治经济、行政相关的规定的解说的记载。
その解説に「日本天皇」という記述があることから、大宝律令が制定(701年)されてからか、制定される前から「日本」という国名が使われていたと考えられています。
在解说中有关于“日本天皇”的记载,所以推测是在大宝律令制定前后,就已经使用“日本”作为那个国家的名字。
为什么日本叫做“日本”?
それ以前の中国では、日本のことを「倭(わ)」と呼んでいました。
曾经中国称日本为“倭”。
しかし、日本で漢字の知識が高まる中、「倭」という漢字には「おとろえる」「従順」「背が曲がって背の低い人」など良い意味で使われておらず、国名にふさわしくないと考えるようになっていたようです。
但是,随着日本人汉字水平的提高,他们逐渐认识到,“倭”这个字在汉字里表示“衰落、顺从、驼背、矮子”等不好的意思,不适合作为国名来使用。
そして、聖徳太子(574年~622年)が随(現在の中国)の皇帝に『日出処天子至書日没処天子無恙・・・(日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す・・・)』という内容の文書を送りました。
圣德太子给隋朝的皇帝的文书中写道:“日出处天子至日落处天子无恙……”
これは、日本を「日の出る国」、中国を「日が落ちる国」と表現し、中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を使うことで中国と対等の立場を求めたものだといわれています。
在文书里,“日出之国”指日本,“日落之国”指中国。而且用到了只有中国皇帝才能用的“天子”一词,表示要求日本与中国对等的立场。
そして、この「日出処(日の出る国)」=「日の本(ひのもと)」が由来となって、「日本」という国名に変えたのではないかと中国の歴史書に記されているそうです。
而且,在中国历史书中记载着,“日出处(日出之国)”=“日之本(ひのもと)” 可能这就是“日本”成为国名的由来。
なぜ「日本」という国名になったのか、いつから使われているのか、明確になっていないことが多いのですね。
为什么日本叫做“日本”呢,到底是从什么时候开始叫“日本”的呢?目前还不是很明确。
为什么日本英文名叫做“Japan”?
ところで、日本のことを英語で「NIPPON」や「NIHON」ではなく「JAPAN(ジャパン)」というのも不思議に思いませんか?
话说,日本在英语中,不读作“NIPPON”或者“NIHON”,而是读作“JAPAN”,不是一件很不可思议的事情吗?
これは、マルコ・ポーロ(1254年~1324年)が世界について記録した「東方見聞録」の中で日本のことを「ジパング(Zipangu または Cipangu)」と書いたことが由来だという説があります。
有一种说法是,马可波罗在《东方见闻录》中将日本写作了“Zipangu/Cipangu”而得名。
しかし、「ジパング」と「にほん」、全く発音が違いますよね。
但是,为什么“Zipangu/Cipangu”和“NIHON”发音完全不一样呢?
これはなぜかというとと、マルコ・ポーロは直接日本には来ておらず、中国人に日本のことを聞いて「東方見聞録」を書いたからです。
因为马可波罗并没有去日本,而是问了中国人关于日本的事情,然后写到《东方见闻录》里。
当時の中国の漢音(かんおん)という読み方で「日本」を「じっぽん」と発音したのを聞いてマルコポーロは「ジパング」を書き記したといわれています。
当时中国人将日本读作“じっぽん”(福建方言),马可波罗听到后就把日本写作了“Zipangu/Cipangu”
「日」は現在でも「じつ」と発音することがありますが、漢音の読み方の名残だといわれています。
到现在,“日”这个字在日语中也存在“じつ”的发音,就是从中国话的发音流传过去的。
いずれにしてもジパングを語源とした「JAPAN」が海外で広まり定着したのですね。
不管怎么样,以“Zipangu/Cipangu”为语源,日本在海外被叫做了“JAPAN”。